建立無上殊勝願 超発希有大弘誓

(意訳)最高にすぐれた願をお立てになり 世にまれな大いなる誓願をおこされた
 
(書き下し)無上殊勝の願を建立し 希有の大弘誓を超発せり
 
願とは、阿弥陀様の全ての衆生を救うという願いであり、誓いであります。
誓願とは、すべての菩薩に共通する願い、誓いであります。
 
私も願いや誓いをすることはあっても、その範囲は私の身の回りであって、
隅々までいきわたるような願いは持てません。
私の視野は、それほど狭いのです。
裏を返すと、その願いや誓いは私の周りだけ幸せになるのであれば、
他は知らないという自己中心的な考え方になってしまいます。
 
入学試験の時期になると、多くの祈願成就の商品が販売され、多くの学生が願掛けをしに参ります。
そこでは、「学校に受かりますように」と願われるのでしょうが、
裏を返すと「自分は受かって、誰かが落ちますように」という考え方になってしまい、
私利私欲の身勝手な願いとなってしまいます。
願掛けによって、心が落ち着くなどの心理的効果はあるでしょうが、
それは世間の風潮によって刷り込まれた考え方になっているのです。
本質を見抜くならば、定員の決まっている試験であれば、必ず誰かは落ちてしまいます。
試験結果が全てであり、願を掛けようが願を掛けまいが試験にはなんの効果もありません。
因果関係を見ると、テストのヤマが当たったのであれば、試験を作った人の思惑に沿ったからであり、
試験を作った人に不思議な力が働いたことにはなりません。
また何らかの不思議な力によって合格するということはなく、結果には原因が必ずあります。
祈願が成就するのであれば、試験が学力を試すものではなく、いかに祈願したかという誤った方向に行ってしまいます。
平等の救いと言えないし、安心できる神様ではないです。
試験の話を取り上げて大げさに話していますが、日々の私の願いとはそういうものなのです。
私という存在は欲望を拭い去ることができない、絶えず消えず起こるのです。そこに私という存在の本質に気づくことが出来ます。
 
最高にすぐれた願をお立てになった阿弥陀様は、すべての衆生を救うという教えです。それは、この世に希な広大な誓願なのです。
 
(ここから難しくなります)
誓願とは、菩薩が仏の位となるときに誓う共通の願いであり、総願とも言います。
諸仏に共通した総願とは別に、それぞれの仏様には別願という特有の願いがあります。
阿弥陀様の場合は四十八願になります。「建立無上殊勝願」の願とは、四十八願を指し、その中に十八願があります。
誓願は、四弘誓願の内容は、すべての衆生をさとりの岸に渡そうとする衆生無辺誓願度・すべての煩悩を
絶とうと誓う煩悩無辺誓願断・すべての教えを学び知ろうと誓う法門無尽誓願知・この上ないさとりに至ろうと誓う無上菩提誓願証です。
(総願)諸仏に共通しているものが、四弘誓願。
(別願)阿弥陀仏の特有の願が、四十八願。
四十八願を本願という場合もある。
十八願も本願といわれる場合があるが、十八願について言えば「本願」「本願の中の本願」
「別願の中の別願」「本願の中の王」「根本の願」と言われる。
 
殊勝とは、「殊に優れたもの」という意である。
超発とは、「超えすぐれた願いを起こすこと」という意味であり、二つの意味がある。一つには、
世間において、これ以上のものがない無上の願という事であり。
二つには、諸仏の願に対して未だもって立てられなかった願をお立てになられたので
最高の願であるという意味で超発と使われている。だから希有であるのである。

-正信偈