さびしいとき

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さびしいとき
わたしがさびしいときに、
よその人は知らないの。
わたしがさびしいときに、
お友だちはわらうの。
わたしがさびしいときに、
お母さんはやさしいの。
わたしがさびしいときに、
ほとけさまはさびしいの
金子みすゞ
お釈迦様は、阿弥陀様を「親様」(おやさま)と喩えられ、
親と子の関係で表されたのでしょうか。
キリストでは、「信じなさい」と言われます。
イスラムでは、「私以外は認めない」と言われます。
神社では、「祈り・願い」に対して応えてくれます。
※他宗教の事は詳しく分からないので、詳しくは専門家にお尋ねください。
では、仏さまは何と言っているでしょうか?
これを親と子の関係でいうならば、
親は子どもに対して「私を信じなさい」とは言いません。
言わずとも、親の言葉・行為を持って子どもは信じるのですから、そんな言葉は不要です。
「私(の望むこと)以外は認めない」とも言いません。
親は子どもの自主性を尊重し、それを陰ながら支えているのであります。
子どもが「お願いをしたら」応えてくれるのでは、それは親ではありません。
子どもが思うよりも先周りをして準備しているのが親の心です。
仏さまは、何も言わずただ私と共に一緒にいてくださる。
いうなれば、仏様から私への思いは、一方的であり片思いです。
それは、親の子育てと同じ関係です。
何も見返りはない、感謝もされない、信じろとも強要しない。
その愛情の中で、子どもの心が育まれていきます。
子どもの幸せを願うのみで、それが親の心です。
産んだから親というのではありません。(と、私は思います)
阿弥陀様を親様というのは、この関係性によるからです。
阿弥陀様は私たちの苦悩を自らの苦悩と受け取り、
私たちの喜びを自らの喜びと受けとってくださる仏さまなのです。
そして、私が地獄に落ちないように、迷いの命を経巡らないように、いつも私と共に
いてくださいます。「必ず救う・我に任せよ」と誓われ、その座よりお立ちくださったのです。
私だけではありません。亡き方も迷うのではありません。今、阿弥陀様と一緒に
仏となり、まさに今私たちに南無阿弥陀仏のお念仏となって届いてくださっているのです。
金子みすずの言葉にあるように、
私の心のなかは誰にも分かってもらえません。
他人は知らんし、友達も分かってくれない。
優しくしてくれる人もいるけれども、私と共に泣いてくださるのは
阿弥陀様ただ一人なのです。
そして決して私を一人にしない。私がまた笑える時になるまで
共にいてくださるのです。

-法話

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