能発一念喜愛心  不断煩悩得涅槃

(書き下し)よく一念喜愛の心を発すれば 煩悩を断ぜずして涅槃を得るなり
(現代語訳)信をおこして、阿弥陀仏の救いをよろこぶ人は、自ら煩悩を
断ち切らないまま、浄土でさとりを得ることができる
以下6句で、親鸞聖人が法然聖人のもとで学ばれていた時の話をします。
親鸞聖人が、お師匠様である法然聖人より『選択集』(法然著)の書写を許されます。
この時代、「書写を許される」とは、数多くの弟子がいる中で認められていることを
表します。
その時に、親鸞聖人は法然聖人に
「門弟に正しく教えを受けとっておられるか、先生のお弟子が集まった折に、
みんなに提案して、お互いに心の世界を確かめてみようと思うのですが、
いかがなものでしょうか」
と進言され許されました。
翌日・・・親鸞聖人は多くの門弟の前で、信心によって往生が定まるとする信不退と
念仏によって往生が定まる行不退の二座に分け、門弟はいずれに賛同するかを求めら
れました。
当時、三百余人が法然聖人のもとで教えを受けていました。その中で、信不退の座に
ついたのは、親鸞聖人を含め四人しかいませんでした。他の門弟は、どちらにつくか決め
かねている中、法然聖人が親鸞聖人と同じ信不退の座につかれると、一同は面目のない
顔色を隠し切れない様子でした。
もし、みなさんがこの場面にいたならば、信不退に座る決断は出来るでしょうか。
現代風に質問するならば、、
「信心によって往生するのか?それとも、念仏を唱えて往生するのか?」
ということになりましょう。
浄土真宗では、祈願・祈祷を行いません。
現世利益をいいませんし、お守りは売っていません。
何も知らない人は、浄土真宗の事を「なにもせんでいい宗教」と言われます。
では、なぜ800年も浄土真宗の教えが伝えられ続けたのでしょうか?
ご先祖様が、この教えを絶やさずに残していかれたのでしょうか?
そこには、この人生を生きていくなかで、どうしても自分の力ではどうしよう
もならない事に出会った時に、祈願・祈祷・お守りという手段が頼りとならない
事に気づき、阿弥陀様の救いに自分の煩悩が障りとならないことに気づいたから
こそ、今ご先祖様の前で手を合わすことが出来ているのであります。
「自らの煩悩を断ち切らないまま」で大丈夫な教えであり、この私のすべてを見通した
阿弥陀様だからこそできる救済です。
「何もせんでいい宗教」であっても阿弥陀様への感謝のない、ご先祖様への感謝もない教えではありません。
この教えに出会ったならば、阿弥陀様・先達の方々へ手を合わせ、親様の思いを頂いていく、
感謝していく教えなのです。何もしないでいい教えでは決してありませんし、そんな浅い教えでは
ないことに気づくはずです。
法然聖人のもとで、なぜ多くの人が信不退の座に座らなかったのか。
聞き間違いをしてしまわぬようにしたいものです。
(難しくなります)
まず、語句説明をしますと
喜愛心・・・信心
得涅槃・・・正定聚のこと、まさしく往生浄土が定まった行為(往生の正因と定められた行業)
ここに述べた話は、『御伝鈔』というお書物に記されています。

-正信偈