凡聖逆謗斉回入 如衆水入海一味

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(書き下し)凡聖逆謗ひとしく回入すれば、衆水、海にいりて一味なるがごとし
(現代語訳)凡夫も聖者も五逆のものも謗法のものも、みな本願海に入れば、
どの川の水も海に入ると一つの味になるように、等しく救われる。
凡夫も、聖人も、一般人も、悪い人も、えらい人だって、全員、
貧富・貴賎・老若男女問わず、全員が仏となる教えです。肩書や地位名誉に左右されません。
ただ阿弥陀様にお任せする信心一つといわれるのです。
それはまるで、水が海に帰っていくようなものです。
雨はどこでも等しく落ちていきます。人間として、私は今ここに生を授かりました。命は人間だけじゃありません。
地球上のどこに命として宿るか、それは生まれてみなければ分かりません。
雨は山に落ちることもあれば、田んぼや畑に落ちます。屋根の上にも落ちます。雨はどこにでも落ちる。
けれど、どこに落ちてもやがて帰っていく場所があります。
それは、海です。どんな水も、やがて海に変えれば一つの海水へと転じていきます。
綺麗な水も、濁った水も、どんな水でも大きな海はすべてを引き入れ、一味(ひとつの味)へと包み込むのです。
今、縁あって人間界に生を受け、聞き難くして仏縁に会うことが出来た私たちは、
綺麗な水も、濁った水も海水となるように、この命の行く末は、阿弥陀様に抱き取られ、
仏のいのちの生まれるのです。死は終わりじゃありません。仏に生まれる縁なのです。
カッパの川流れという諺がありますが、
「名人や達人であっても、油断して簡単な失敗をすることがあるというたとえ。」
です。私たちの人生、ずっと自力で泳ぎっぱなしにはなりません。老病死が訪れます。
やがてどんな水泳の名人であっても、力尽きる時が訪れます、
身を任せば弥陀の懐(ふところ)という言葉があるように、
自力ではない、他力なんだよ。その先に、仏に生まれると言うのです。
(難しくなります)
回入とは、はからいの心を離れて正しい信心の道に入ること、自力心より他力信心に回心帰入することです。
「回」とは、回転というように、「まわる」という意味があります。向きを変えるという事です。
また次回という場合には、これは度数やひとまわりの意味があります。例えば正信偈勉強会の第2回と
言った場合には、15回の内の2回目といったように「回」という字を使います。
この回入は、回し入るということなので、前者の意味です。
お経の最後に「回向句」というのがあります。
願以此功徳 (がんにしくどく)
平等施一切 (びょうどうせいいっさい)
同発菩提心 (どうほつぼだいしん)
往生安楽国 (おうじょうあんらっこく)
というものです。これが始まると、もうすぐお経が終わります。っていう意味ではありません。
お茶やお菓子の準備をしてくださいという意味でもありません。お経にはちゃんと意味があるのです。
ですから、どうぞ最後までお経を拝読することが必要なんです。
書き下すと、「願わくばこの功徳をもって、平等に一切にほどこし、同じく菩提心を発(おこ)して、安楽国へ往生せん」
これは阿弥陀様が私たち衆生(すべての命の上)に、必ず届いているということなのです。
自分の力・功徳を振り向けるのではなく、阿弥陀様より届いたものを讃嘆しているのです。
この言葉は、善導大師の『観経疏』散善義の帰三宝偈の一節です。
弥陀の大慈悲心がここに届き、そして他を利することもまた大悲の表れと喜んでいくのです。
話を戻しますと、凡夫も聖者も、ただ弥陀より回向された(回し向けられた)この付属された名号を
ただただ頂くばかりです。
それが、川のようにただ身を任せる姿であり、浄土真宗の生き方でありましょう。
自力・功徳・修行によって周りに振り向けることを自力の行・そして回向といいますが、
浄土真宗は不回向です。自分の力にそんな立派なものはないのです。
私が私が振り向ける、回向するものがないのですから、不回向なのです。
阿弥陀様から回向されるものを頂くだけ、それがお念仏(名号)であり信心なのです。
 

-正信偈

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