お経の最後には何が記されているのか

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お経とは、狭い意味では2500年前にお釈迦様(実在した人)が説かれた話を、
後世で文字に残されたものを意味します。
広義では、菩薩様方がお書きくださった、論書や注釈書をお経ともいい、聖教(しょうぎょう)と言います。
浄土真宗でお経を読む場合、
仏説阿弥陀経・・・お釈迦様が説かれた(仏説)、阿弥陀という仏さまについてお話された話(阿弥陀)、本(経)といえます。
また十二礼(らいはいのうた)は龍樹菩薩さまが記された論書の一部であり、正信念仏偈(正信偈)は親鸞聖人のお書物の一部です。
このように、私たちがいつも読んでいるお経すべてがお釈迦様のお話ではないのです。
共通することは、すべて阿弥陀様のお心(大慈悲心)について説かれているもので、私に届けられているのです。
今日、お話するお経の最後というテーマですが、このお経とは阿弥陀経を指します。
阿弥陀経の最後には何があるのか、文字の羅列として捉えるのではなく、このお言葉について味わってみようと思います。
まず、阿弥陀経の始まりから見てみますと、これは特殊なお経であることがわかります。
一般的にお経には、お釈迦様とそのお弟子さんが登場します。
そして、お弟子さんが質問をされるのですが、そこからお釈迦様のお話は始まるのです。
例えば、弟子が「般若波羅蜜多(仏)の智慧(悟り)を得るには、どうしたらいいのか?」という問いが生まれると、
お釈迦様がこれらの問題について話を始められるのです。「般若心経」はその代表的なお経と言えると思います。
智慧を得る方法が説かれたものなのです。ハウツー本と言えるかと思います。他宗の事は専門外なので、
間違ってはいけないので、「般若心経」についてはこれまでとします。
私がお伝えしたいことは、阿弥陀経の最後には何が説かれているかという点についてですので、話を戻します。
一般的に、QandAの構成がお経なのですが、阿弥陀経は、その「問い」の部分がありません。
お釈迦様が問われる前に、自らお話を始めたことなので、問いが無く、自ら説かれたお経という事で、
無問自説(むもんじせつ)の経と言われる特殊なお経なのです。
聞かれて話しだすという構成ではなく、自ら話したい事・伝えたいことを説かれたものなので、
お釈迦様が、後世に残し伝えたかった話と言えましょう。
その内容は、詳しくは外部サイトに任せますが、お浄土について、阿弥陀仏について、諸仏に讃嘆されていることが
説かれてあります。
その最後には、及諸比丘一切世間・天人阿修羅等・聞仏所説・歓喜信受・作礼而去。

現代語訳
「多くの修行僧たちも、 すべての世界の天人や人々も、 阿修羅などもみな、 この尊い教えを承って喜びに満ちあふれ、
深く信じて心にとどめ、 うやうやしく礼拝して立ち去ったのである

つまり、このお経を聞いた者達は、修行に励んで実践したと終わるのではなく、
この話を聞き、喜び帰って行ったとあるのです。ここに浄土真宗ならではの話になり、
阿弥陀仏が他の仏さまとは違うことが明らかになります。
仏教では、修行→悟りなので、修行のハウツーが基本です。
けれども阿弥陀経には、ハウツーよりも阿弥陀さまがいかに私を救ってくださるのかを、
ただ聞き受けてい行くことに重要なのであると説かれているのです。
この阿弥陀仏のみ名(南無阿弥陀仏)を聞き、仏に守られ、仏となると記されているのです。
(※聞是諸仏所説名・及経名者・是諸善男子・善女人・皆為一切諸仏・共所護念・皆得不退転)
お経に説かれている事は何なのか、少し興味を持って頂けたでしょうか。
仏教とは、厳しい修行するイメージがあると思いますが、それだけではありません。
阿弥陀という仏さまが、この私をいつでも見守り、護ってくれている。その仏さまのお心を
聞かせていただき、ただその仏さまにお任せするという事も、仏教であり、それが浄土真宗なのです。
自分の力で解決出来ない問題が世の中には多々あります。むしろ思い通りになることの方が少ないと思います。
我が力で、悟りを得ることも、心穏やかにすることも出来ない人間であると見抜いてくださった仏さま、
その偉大な力にお任せ(帰依)していく、生き方も仏教徒の生き方の一つなのです。
まさに、親の腕の中に包まれた赤子のように、私たちはこ後生(命の終わり)を任せ、
力を抜いて、ただ身を任せることが、心の平安にもなるのです。
我が力でなるのではありません。そのようになるのが、阿弥陀という仏さまであり、
それを聞いた人(お経の中でいうと、お釈迦様の話を聞いた弟子をはじめ人々)は、
ただ喜び信じ帰っていかれたのでありました。

-法話

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