弥陀より救われる

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現代の生活様式を見てみますと、個々が大事にされているように思います。
良し悪しを判断できる私ではありませんが、この時代には個々が重要視されて集団での
思いやり等が希薄になっているように思います。
以前との違いは、親戚付き合いがあり近所の人とも面識があり、事あるごとに関わりを持ちながら
生活が成り立っていたかと思います。煩わしい事も沢山あったでしょうが、その中でお互いが
お互いを思いやり(干渉とも言いますが)を持ちながら、何かと分かりあえていたのでしょう。
個人(自らの生活のみ)が重要視される事により、他との関係が断たれる社会のように思えます。
個性(自分)を大切にすることは良いことですが、他との繋がりが何故断たれてしまうのだろうか。
親戚の口うるさいおじさんに、色々言われてしぶしぶ聞いていたことが、振り返って言葉を思い出してみると、
先人の智慧といいますか、世の中の渡り方・礼儀などを教えてもらい、気づかぬ内に身についていた、なんて事
はないでしょうか?「何かあったら相談せぇよ!」なんて、会う時はいつも酔っぱらいの親戚が、相談してみると
とても頼りになる「おっちゃんだった」なんて事は、なかったでしょうか?
自分の時間を大切にするあまり、他を排除し親戚づきあいを無くした関わりが今の人間関係でしょう。
これは合理的だろうか?スマートな関係とはいえません。
若くて・健康で・元気な時は問題ないでしょう。それは自分が困っていない順風なのですから、
しかし、やがて年を取り・病気になり・人の力を借りる時に、自分には頼るものがなかったと気づきます。
それは、お互い様で親族が思いやり、智慧を出しあい、協力していた、これまでの「関係(仕事)」を放棄した結果、
今の社会は、身内には頼れない人間関係になったのでしょう。
日本は社会福祉が充実しておりますから、相談すべきところに行けば助けてくれることは有り難いことです。
しかし、社会福祉があるからと言って親族の繋がりが不要であるとは思えません。
自分で人生を選び、自己責任で人生を歩むことができるのは、今のうちだけです。
一人で死んでいくなんて出来ないし、寂しいじゃないですか。
少しくらい迷惑かけてもいいんじゃないでしょうか?
親鸞聖人の歩まれた人生は、阿弥陀如来さまにお任せをした人生と言えます。
この命を一人で終えれない、この死の問題を自らの力では越えていけないと分かればこそ、
この命を目当てとしてくれていた阿弥陀如来さまに出遇えたのでした。
この命終えるという事実は変わりませんが、この人生を歩む意味が大きく変わります。
やがて命終える人生だけれども、ただ終わるのではありません。仏となる命を今歩んでいるのです。
自分で生きていたとしても、やがて終りが来る。その私を助けたいと思ってくれているのが仏さまであり、
先達の方々です。私の口に届く親様のはたらきが「南無阿弥陀仏」のお念仏なのです。
自己責任、一人主義がありますが、家族・血縁を思い出し、私の命を思っていてくれる方々の思いに
気づいていきたいものです。人生を歩んでいく事実・環境は変わらねども、
この人生を生きる(歩む)意味合いが、大きく変わる。そんな事を気づかせてくれるおはたらきです。

-法話

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