降りてきてくださる仏さま

みなさんにとって仏さまとは、どのような存在でしょうか?
宮崎県の保育園(橘保育園)に見学行った時のことです。
園児たちが書いた絵に驚きました。
園児たちが書いていたのは、阿弥陀様の絵だったのです。
この保育園は、お寺が経営する保育園だったので、よくよく隣接する
お寺に行っては、お参りをして園長先生(住職)の話を聞く機会があるようです。
お寺が経営する幼稚園・保育園は多く、全国でも仏さまの絵を描くことはそう珍しくはありません。
では、なぜ宮崎でみた子どもたちの絵に驚いたのかと言いますと、
その阿弥陀様が描かれた場所が、公園であったりお花畑であったり、本堂の中ではなかったからです。
一般的に子どもたちに仏さまの絵を書いてもらうと、本堂の須弥壇(しゅみだん)に御安置されている
仏さまを描かれます。おそらくお寺に参って、みんなでよくよく仏さまをご覧になって、
そして園に戻って、記憶に残る仏さまを精一杯描かれるのでしょう。
少し想像してみただけでも、とても微笑ましい風景です。
宮崎県の保育園では、園児たちの描く仏さまは、本堂の中というよりも
遊んでいる子どもたちの中に描かれていました。
そこに驚いたのであります。
おそらく毎月お寺に行く度に、園長先生が阿弥陀如来さまがどのような仏さまなのか、
本堂だけではない、いつでも私の側にいてくださる仏さまなのだと、常々申されればこそ、
先生方の日々のご教化が子どもたちの心を育んだのかと頭が下がります。
そうなんです。阿弥陀如来さまは本堂や仏壇の中だけにいらっしゃるのではありません。
この私のそばにいつもご一緒くださるから、仏さまなのであります。
私が喜んでいる時も、悲しい時も、一人落ち込んでいる時も、決して阿弥陀様は見離しません。
いつでも温かくご一緒くださるから仏さまなのです。南無阿弥陀仏のお念仏となり、
この私に届いてくださる。目には見えぬけれども、はたらいてくださっています。
これは、聞いた話でありますが、ある保育園の卒園式の時でありました。
園児のみんな、卒園式に向けて何度も何度も式の予行練習をしていました。
先生に名前を呼ばれて、大きな返事をして、先生の前まで進んでくる。
そして、先生から卒園証書のようなものを手渡されて、自分の席まで戻るという練習です。
私ども大人であれば、なんという事もないですが、園児たちにとっては大変緊張するのでしょう、
本番まで何度練習しても先生方の不安はなくなることはありません。
ある園児のケンタくんも、その一人でした。練習では大きな返事と立派に前まで一人で
進んでいけたのに、本番ではどうでしょう。ご両親が見守る中、たくさんの大人たちと
いつもの雰囲気が違うことで、とても緊張していたのであります。
園長先生に何度名前を呼ばれても、ケンタ君は返事をすることも、立ち上がることも出来ませんでした。
何度も練習をしてきた先生もハラハラしています。思わず
「ケンタくん、いつも練習では出来てたよね、返事をして園長先生のところまで行くんだよ。
いつも出来てたじゃない。頑張って」
その様子を見ていた大人たちも、ケンタくんがその後どうするのか固唾を呑んで見守ります。
園長先生は、
「ケンタ君、大丈夫か。先生のところまで頑張っておいで」
とは言いませんでした
園長先生は、
「ケンタ君、とても緊張しているんだね。よし先生がケンタ君のところまで来てあげよう」
といって、壇上から園長先生自ら降りてきて、座っていたケンタくんの前で来られます。
すると、先生は腰を降ろして、ケンタくんの目の前で、卒園証書を大きな声で読み上げます。
園長先生、最後まで読み上げてケンタくんに渡す時、
ケンタくんは、大きな声で「はい」と広い教室いっぱいに大きな声が響き渡りました。
この話、園長先生とケンタくんの卒園式の様子でありますが、
その園長先生の姿こそ、まさに仏さまの姿ではないでしょうか。
私たちは、どれだけ老病死の準備をしていても、予行練習をしていても
自分で用意したものだけでは、安心できません。どれだけ大丈夫と思ってみても
いざ本番になると、なにが起こるか分かりません。
その時に、頑張れと壇上で待っていても、園児には何も出来ないことがあります。
どれだけ先生と練習しようとも、本番では先生の声も届かないこともあります。
じゃあ、どするのか。園長先生が、ケンタくんに所まで降りてきてくださったように
仏さまもそうであります。
私たち、命終える時に、頑張れ頑張れと仏の国から応援している仏さまではありません。
頑張って頑張ってという仏さまではないのです。
仏さまから、私たちのところまで降りてきてくださるから、阿弥陀如来という仏さまなのであります。
本堂にいるんじゃない、お仏壇の中にいるんじゃない、あの立っている姿こそ、
浄土より座を立ち、今ここに来ておるぞの姿なのでありました。
橘保育園の園児たちは先生方のお話の聞く中で、本堂や仏壇だけにいるのが仏さまじゃない、
私たちが楽しく遊んでいるときも、私の所に来てくださる・見守ってくださる・喜んでくださる仏さまなのだと、
彼らの世界観の中に共に育まれていたのでありましょう。
やがて我々も、この大きな問題(死に逝くこと)にぶつかる時があります。
決して頑張って越えていくことはありません。
この私の所に仏さまの方から来てくださればこそ、必ず会える世界が待っているのです。

-法話

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