浄土より帰ってくる

親鸞聖人のお書物『教行信証』に、
「つつしんで浄土真宗を案ずるに、二種の回向あり。一つには往相、二つには還相なり。」
と、始まります。浄土真宗の教えは、2つの姿があり、1つは浄土に往生する事(往相)ともう一つは浄土より私たちに帰ってくる還相があります。
つまり命終わり、浄土に参り仏になるのですが、それで終わりではありません。
仏となり私たちを見守ってくださる存在となるのです。
いつでも・どこでも私のことを気にかけて、「私に任せて安心しなさい、必ずあなたを仏とさせるぞ」
と、南無阿弥陀仏のお念仏となり私たちにはたらきかけてくださるのです。
私たちの日頃の生活では、死者のことを遠ざけて考えてはいないでしょうか。
生と死を対極に考えて、私は生の方で死とは無縁であるように存在しているようです。
私の職業柄でしょうか、死とは無縁な方は一人もおらず、よくお葬式に行くので、いつも人生無常の理を感じることばかりです。
先日法事のお参りをした時には、25回忌のご縁でした。奥さんと息子二人とお孫さんが手を合わせて、一生懸命にお経を読んで下さいました。話を伺うと、旦那さんとの思い出を話してくださり、その話を聞く中で人柄を感じる事が出来ました。
人は出会いがあれば、別れが必ず訪れます。
命を授かればこそ、かならず終わりがきます。
人は、その事を法事など人生の節目に思い出すことばかりなのでしょう。しかし、その私を決して忘れはしない、見捨てない仏さまがいます。お浄土に往き生まれ、仏となった先達の方々です。いつも私たちの事を見守ってくださる、南無阿弥陀仏のお念仏のはたらきとなって私たちにいたり届いているのです。
私が唱える南無阿弥陀仏は、私が唱えたのではありません、仏さまのお喚び声が私の口に「南無阿弥陀仏」となって届いているのです。
「我称え 我聞くなれど 南無阿弥陀
つれてゆくぞの 親のよび声」(原口針水和上)
私が唱えたのではありませんでした、この私が忘れていても忘れない仏さまが私を見守っていてくださるのでした。
法事など節目のご縁を思い出させていただき、この私の命が終わる時仏とならせて頂くのです。そして、浄土に往生し、またこの世界に南無阿弥陀仏のお念仏となり、大切な方々を見守る存在となるのです。
死んで終わりではない、又お浄土で出会い、御報謝させていただきましょう。

-法話

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