修諸功徳と万行随一

浄土三部経が、『大経』『観経』『小経』そして、本願が第十八願であることを知っている人は、是非とも読んでください。専門用語が多い法話になったので、面白くはないかと思います。

親鸞聖人の三願の捉え方

『仏説無量寿経』の四十八願の中の第19願に「たとひわれ仏を得たらんに、十方の衆生、菩提心を発し、もろもろの功徳を修して、至心発願してわが国に生ぜんと欲せん。寿終る時に臨んで、たとひ大衆と囲繞してその人の前に現ぜずは、正覚を取らじ。」このように説かれてある。ここに修諸功徳という言葉があるのがお分かり頂けるでしょうか?もろもろの功徳を修して=修諸功徳 、なのである。つまり色んな修行によって功徳を修行しなさいという見方の出来るのですが、親鸞聖人の18願・19願・20願の捉え方と『仏説無量寿経(大経)』・『仏説観無量寿経(観経)』・『仏説阿弥陀経(小経)』の捉え方に特色があります。簡単に図式で表すと
第18願 ・大経 ・往生浄土 ・他力の念佛
第19願 ・観経 ・仮の浄土 ・自力の修行
第20願 ・小経 ・仮の浄土 ・自力の念佛
このように表されるのである。

十九願に説かれる修行とは、観経には何が説かれるのか

ここで注意してほしいのが、第19願の行について「自力の修行」とあるのである。修行と言っても様々な行があるのであるが、いったい何から取りかかればいいのか?それは詳しくは『観経』をご紹介します。
まず日想観といい、日が沈む先にお浄土がある様子を思い浮かべなさいとあります。昔の人は、日の沈む先にお浄土があると聞いてきました。インドに行った時、地平線に夕日が沈む様子を見ていると、たしかに日本では見られないほど大きくなった太陽を見ていると、とても綺麗でした。
次に水想観といい、水の清く澄みきった様子を心に思い描き、心を乱さないようにと色々ある。とりあえず挙げるならば地観・宝樹観・宝池観・宝楼観・華座観・像観・真身観とあり、さらに上の上から下の下と9つに分類されて様々な行を説かれるのである。
第19願に説かれる修諸功徳という様々な修行によってと説かれるが、内容を詳しく見ていくと我々の出来る範疇を大きく越えたものだということが分かる。到底それらの行が出来る力量を持ち合わせていない私(わたくし)なのです。その観経の中でも最後に、まとめ(流通分)の部分があり、そこには念佛が勧められています。今まで色んな行を説かれたのですが、最後に一言「無量寿仏の名をこころにとどめよ」と言われるのである。観無量寿経に、様々な修行が説かれますが、その中でも一番伝えたかった事は無量寿仏の名を心に留める=つまり、南無阿弥陀仏とお念仏を勧められたのです。
ここで言えるのが、万行随一の念佛と示されるのです。『観経』にたくさんの修行を挙げ、諸善万行という様々な行が説かれるけれど、その中でも随一、つまり一番は念佛であると示されました。念佛が優れた行であると表されます。

太陽と星のたとえ

これを「太陽と星」で表されます。太陽が阿弥陀様、光が念佛。星が私としましょう。
どれだけ星が輝こうとしても、それは太陽の光がなければ星だけでは光ることはありません。太陽があり、星は初めて光を受けて、星が輝くことが出来るのです。星がどれだけ輝こうと努力しようとも、光る力量がないのですから、そもそも無理なのです。私という存在が、どれだけ努力しようとも悟りをひらく力量などありません。光の要素などそもそも持ち合わせていないのです。むしろ欲・怒り・愚痴など煩悩の無限に振り回されて、ただ虚しく終わっていくばかりなのです。ならば、私の選ぶ道は、その光を受けて念佛称える人生を歩むだけです。昼間の太陽のようには輝けませんが、月と同じように真夜中でも光り輝く星となれるのは、その光をうけたものなのです。阿弥陀様は、光となりお念仏となり私の所に、すでに届いてくれています。まさに闇夜を照らす一筋の光となり、私を照らしてくれているのです。

まとめ

第十九願には修諸功徳とあり、様々な行を勧めているように見えますが、それは仏さまの本意ではありません。一番お伝えしたかったことは、南無阿弥陀仏のお念仏を勧められたのでした。それは、自力で称える念佛ではなくて、すでに阿弥陀様より届いていた他力のお念仏を勧めたものが『観経』のお心でした。万行随一のお念仏、それは自力ではなく親鸞聖人は他力念佛であると気づかれたのでした。

-法話

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