彼岸(かの岸)

彼岸とは、彼の岸(かのきし)、こちら側に対して向こう岸ということです。
世間ではあの世なんていわれますが、仏教でいう彼岸とはお浄土を指します。
あの世といわれる世界は、おそらくいい印象(イメージ)はありませんが、
彼岸というお浄土は極楽浄土といわれるのであります。つまり苦しみ・悲しみがない、
さとりの境地・仏様の世界です。
彼岸の対義語として、此岸(しがん)といいますが、この世界(娑婆・思い通りにならない世界・
忍土・苦しみに耐えてゆかなければならない人間世界)といわれます。
けっしてこの世界は、美しいものばかりでなく、別れに涙しなければならない諸行無常の世界
であるといえます。偉人・先哲の言葉で、「この世はバラ色、楽しみばかりの世界である」といった
ものはなく、むしろ現実をありもままに見詰めた、いわば目を背けたくなるようなものばかりだと思います。
けれども、多くの方が、出会い・別れ、生まれ・老い・病に悩み・命の尊さに気づく言葉こそ
日常の中で忘れてしまっていることを気づかされる胸を打つ力の言葉なのでしょう。
この世界(此岸)は忍土ともいわれ、思い・悩み・苦しみに耐えていく世界に対して
お浄土(彼岸)は極楽正解、この苦しみのまったくない世界というのです。
『仏説阿弥陀経』には、
「舎利弗従是西方過十万億仏土有世界名曰極楽其土有仏号阿弥陀今現在説法」(原文)
これより西方に、十万億の仏土を過ぎて世界あり、名づけて極楽といふ。
その土に仏まします、阿弥陀と号す。いま現にましまして法を説きたまふ。(書き下し文)
そのとき釈尊は長老の舎利弗に仰せになった。 「ここから西の方へ十万億もの仏がたの国々を過ぎたところに、
極楽と名づけられる世界がある。そこには阿弥陀仏と申しあげる仏がおられて、今現に教えを説いておいでになる。(現代語訳)
と、原文・書き下し文・現代語訳とあります。
この世界での縁が尽きたときに、私たちが参る世界は、今現に阿弥陀様が私たちに教えを説きはたらきかけてくださっているお浄土なのです。
この西方かなたにお浄土があるという事は、とても意味深いことであります。
西方極楽浄土というように仏教では申しますが、この西方つまり日の沈む彼方という意味には、
夕日の美しい・茜色に輝く、沈んでいく、すべての命が帰っていく方向を感じるといわれます。
余談ですが、ピラミッドのあるエジプトでは、
川を隔てて西側が死者の国(日の沈む方角に死者が帰っていくため)とされて、
川の東側を生者(生きている者の営む)の世界と言われるようです。
聞いた話なので、本当かどうか定かではありませんが、
死者は太陽の没する国に行くと信じられていたようです。
つまり、仏教以外でも太陽の沈む先に、この命の終わりを見ていったのが人間の思い・考えといえます。
お釈迦様は、その世界を決して空虚な世界とはお説きになられなかった、この苦しみの世界の果てには、
やがて仏の世界がある、阿弥陀様が今この瞬間にも私に向かってはたらきかけてくださっていると説かれています。
シドニーオリンピックで金メダルを獲った高橋尚子選手が「とても楽しかったです」と感想を述べていました。
マラソンは42,195キロという、とてつもなく長い距離で過酷な競技です。
けれども楽しかったと言えるのは、ゴールがあるからに他なりません。ゴールがなければただ辛いだけでしょう。
この世界がただただ辛い・苦しい世界で、その先になにもなければ、ゴールの見えない「楽しみのない」人生となるでしょう。
けれども、そうではありませんでした。阿弥陀様が今も私にはたらいてくださっている、お釈迦様がお説きくださって、
多くの方々がこの私に今ご縁を結んでくださればこそ、
「必ず浄土にうまれされる」と私に届いたご縁(阿弥陀様のはたらき)でありました。
あの夕日の沈む先に、暗闇の世界があるのではありません。
茜空が輝くように、多くの方々がこの私を待ってくれている世界なのです。

-法話

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