共発金剛志 横超断四流

金剛とは金剛力士像を想像するような言葉ですが、金剛石といえばダイヤモンドのことです。
金剛とは、「破壊できない」、「最上の宝」、「最強の武器」という3つの意味があります。
ですので、ダイヤモンドの金剛石の金剛とは、破壊できない石、つまり硬度の高いダイヤモンドということです。
金剛心とは、ゆるぎない信心ということで、他力の信心を表します。
私が思う心は、うつろい変わるものです。しかし、阿弥陀様のお心は、変わるとこなく
いつも私たちのことを目当てとして働いていてくださいます。
だから阿弥陀様のお心は、金剛心で、その御心にかなった心を信心といいます。
ここで一つのたとえ話を。
吉田松陰は、辞世の句で
親思う 心にまさる親心 今日の音づれ 何ときくらん
(子が親を思う心よりも、子を思いやる親の気持ちのほうがはるかに深いということ)
このような言葉を残されています。その年は、安政の大獄で6年10月27日30歳刑死した。
親を思う気持ちって、どこから来ているのでしょうか?少し考えてみてください。
小さいときにはありません。大きくなって、気づけばいつの間にか親を思う大人になっていくはずです。
そこには、一体何があったのでしょうか。
私も大人になり、「親は大切にしなきゃなぁ」と思うようになりました。
小学校のときには、そんな事を思ったこともありません。
しかし、振り返って考えてみると、学校に行く私に「気をつけていくんだよ」とか
弁当を持たせてくれたり、育ててくれた親の心に満たされて育っていたことに気づきます。
私が大人になって、賢くなったから、親を思えるようになったのではありません。
親を思うように育ててくれた「親の心」に満たされて育てられたからこそ、今の心があるのでしょう。
親を思う我が心も、もとを辿ってみると「親の心」のおかげなのでしょう。
ポイント!
・私が親を思う心の根源には、親が私のことを思っていたからこそ育まれたのである。
さて、仏教の話に戻して考えて見るならば、
今、私たちは阿弥陀様のことを考えるようになりましたが、それは一体なぜでしょうか。
今まで六道を輪廻してきた迷いの我が身を、必ず救うと現れ出てくださった阿弥陀様です。
私が阿弥陀様のことを思うようになったのではありません。
阿弥陀様のほうが、私のことを思えばこそ、今の私があるといえるのです。
信心とは、私が阿弥陀様のことを信じる心と間違えやすいですが、そうではありません。
阿弥陀様が私のことを思えばこそ、今私のこころに働いてくださる心を信心という。
つまり、私が信じる心さえも、もとを辿ってみるならば、阿弥陀様のお心だと言えるのです。
金剛心=信心と言いますが、私の心は移ろい変わるもので、不変な心とはいえません。
しかし、阿弥陀様が私の事を思うこころは、絶対に変わることはありません。
だから、金剛心といえるのです。
その御心によって、この迷いの世界を超えていくことを横超断四流というのです。
(ここから難しくなります)
横超断四流とは、親鸞聖人著の『教行信証』「信巻」にも出てきます。
しかるに菩提心について二種あり。一つには竪、二つには横なり。
また竪についてまた二種あり。一つには竪超、二つには竪出なり。竪
超・竪出は権実・顕密・大小の教に明かせり。歴劫迂回の菩提心、自力
の金剛心、菩薩の大心なり。また横についてまた二種あり。一つには横
超、二つには横出なり。横出とは、正雑・定散、他力のなかの自力の菩
提心なり。横超とは、これすなはち願力回向の信楽、これを願作仏心と
いふ。願作仏心すなはちこれ横の大菩提心なり。これを横超の金剛心と
名づくるなり。
ここでは、「横超は願力廻向の信楽」という言葉があります。
願力廻向の信楽=願作仏心=横の大菩提心=横超の金剛心
このよう図式になります。
また後の、「横超断四流釈」では、横超は願成就一実円満の真教=真宗と言われている。
すべてを図式でまとめてみると、(WIkiArcより参照

このようになります。
仏教を仕分けしていくと、厳しい修行により自ら悟りを開くことを目的とする自力「聖道門」(堅)
阿弥陀様にこの身をゆだねていく他力「浄土門」(横)があり、
また、その中でも徐々に変わるもの(出)と即時のもの(超)があるので仕分けていくと
堅出・堅超・横出・横超の4つに分ける事ができる。
・堅出=徐々に変わっていく自力聖道門=自力による厳しい修行で徐々に煩悩を滅し、さとりへと近づいていく
・堅超=即時の自力聖道門=即身成仏を説く華厳・天台などの教え
・横出=徐々に変わっていく他力浄土門=他力によりながらも念仏を自力の念仏として唱え、唱えれば唱えるほど良いとする方便化土に往生するもの
・横超=即時の他力浄土門=阿弥陀仏の本願力によって、徐々にではなく即時であり金剛の信心によって往生浄土が決まる=浄土真宗
このように、仏教といえども様々な教えが残されています。それらを分類するとこのようになるので知っていると通ですね。

-帰三宝偈

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