生死甚難厭 仏法復難欣

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生死とかいて「しょうじ」と読みます。一般的には「せいし」ですね。これは
仏教由来の言葉なので、お経の中では「しょうじ」と言います。
生まれてから死ぬこと、という漢字ですが、仏教での意味は少し違います。
六道(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間界・天界)を生まれ変わり死に変わり、迷いの世界を
めぐりめぐってきた存在が、「私」という存在です。ですので、生死とは「迷い」を表します。
親鸞聖人は和讃の中で、
生死の苦海ほとりなし、久しく沈める我らをば
弥陀弘誓のふねのみぞ のせて必ず渡しける

【現代語訳】(迷いの世界が苦しみばかりの海のように果がない。
この海に遠い過去より沈んでいる私たちを、阿弥陀如来の本願の船は、乗せて必ず渡してくださる)
というお言葉を残されています。
ずっと迷い続けてきた私は、今ようやく仏法に出会うことができました。
六道を迷い続けてきたということは、それほど「仏教にあえなかった」ということです。
だから、善導大師は「仏法はあい難いものである」とお示しなのです。
(ここから難しくなります)
仏法とは、聞き慣れない言葉でしょう。
明治になる前までは、仏教という事はなかったようであります。
仏法と読んでいました。
宗教=religion と英語では書きますが、宗教という言葉に当てはまる言葉が日本にはなかったと聞いたことがあります。
ですから、宗教の中の一つに仏教があって、世界3大宗教は「キリスト教・イスラム教・仏教」と言いますが、
明治以前では、仏教とは言わず、仏法と言われ、それは宗教という概念がなく、
生活の一部にお経を唱え、念仏し、合掌していました。
なぜが宗教と聞くと、敷居が高く、自分とは無関係のように、また死を取り扱うようなイメージがありますが、
日常生活の中に、仏壇があり、手を合わせていたのでしょう。
そう考えると、今では法事の時にしか仏様のことを考えないようですが、
昔は日常生活の中に仏様の存在が有り、仏壇の前に座り、家の中心に仏様という拠り処があったということです。
自分なら、法事の時だけ思い出される存在よりも、いつでも思い出してくれるような存在で頼れる存在でありたいと思います。

 

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